OTSUMA JUNIOR & SENIOR HIGH SCHOOL

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現地に立つ意味

皆さま、ごきげんよう。
連休明け、本校は旅行週間に入りました。高校2年生は下関・九州方面への修学旅行へ、高校1年生は進路を考える2泊3日のオリエンテーション研修に赴いています。中学生も、マザー牧場や九十九里への遠足や歌舞伎鑑賞など、楽しく充実した毎日が続きます。
今日は、高2の修学旅行のしおりに寄せた一文をお伝えしたいと思います。少し長いですがお付き合いください。
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AIやVRが発達し、居ながらにして様々な体験ができるようになりました。インターネットで情報を収集し、YouTubeでリアルな動画を見ることもできます。このような時代に、現地に赴く意味は何なのでしょうか。
景色を「見る」だけなら、わざわざ出かける必要はないでしょう。写真や動画を見れば事足ります。ただ、それらはどこかの誰かの視点で切り取られたもの。他人の目を通した「停止した景色」を見る意味はあるのでしょうか。
今回皆さんが訪れる見学地に下関があります。壇ノ浦の戦いでも有名で、オーソドックスな観光地なのかもしれません。しかし、その場に立って、向こう岸との距離を体感し、波音を聞き、潮の香りを感じる時、海峡に平家の舟がひしめき合い、一つまた一つと沈んでいった様を、ありありと思い浮かべることができるのではないでしょうか。平家一門の嘆きと絶望を、自分の感覚でとらえられるのではありませんか。この海峡はまた、幕末の馬関戦争(下関戦争)の主戦場でもありました。狭い海峡に外国船が迫った時の、人々の恐怖と焦りは、行ってみてはじめて実感できると思います。
長田弘という詩人の著書『すべてきみに宛てた手紙』の中に、次のような一節がありました。
「風景を見るということは、風景を読むということ。そして、世界を見るということは世界を読むということです。」
「存在するものは、かならず自分の物語といえるものをもっています。その物語をじっと聴きとる。そして、わたし自身の言葉で書きとってゆく。」
「「書く」ことは、つまり、「読む」ということにほかならないのです。「書く」とは存在するものの言葉を「読む」ということです。」
存在するものの物語を聴きとり、自分の言葉で紡ぎ直し、自らの感性で感じとるために、私たちは現地に赴くのだと思います。誰かの言葉で切り取られた世界を味わうことに甘んじていてはつまりません。修学旅行では、皆さんの五感をめいっぱい使い、自分なりの世界を切り取ってきてほしいと願っています。
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かくいう私は、高1のオリエンテーション研修に同行しています。これからクラスごとのミーティングで、一人一人が自分の進路について自由に発表するとのこと。どのような夢が語られるか、とても楽しみです。
明日も皆さまにとって素晴らしい一日となりますように。
ごきげんよう。

大妻中学高等学校
校長 赤塚 宏子